92年の時を超えて蘇るバロン西—日本の名馬術家の物語~オリンピック金メダルから戦火の悲劇まで~

2024年パリオリンピックで日本馬術団体“初老ジャパン”が92年ぶりにメダルを獲得したことが大きな話題となり、同時に「バロン西」という名前も注目を浴びました。
バロン西(西竹一)は、1932年のロサンゼルスオリンピックで、馬術競技において日本初の金メダルを獲得し、唯一の馬術障害飛越の金メダリストとしてその名を知られています。彼と愛馬ウラヌスの物語を、みなさんにわかりやすく紹介します。

西竹一の幼少期

1902年7月12日、東京の麻布で西竹一は裕福な家庭の三男として生まれました。父の徳二郎は男爵で外交官でもあり、中国の西太后から信頼を得て、中国茶の専売権を持つなどして巨大な富を築きました。まっすぐで強い竹のように育ってほしいという願いを込め「竹一」と名付けられました。幼少期から元気いっぱいで、ちょっとしたいたずら好きな少年でした。

しかし、10歳のときに父が他界、長男と次男も早くに他界していたことから、竹一は遺産と共に爵位も継承しバロン(男爵)も受け継ぐことになりました。13歳になるころには、母も亡くなり、竹一は親戚の叔父に引き取られ育てられることになります。

軍人への道

1920年、18歳になった竹一は陸軍士官学校に入学しました。そして、そこで彼はその後、運命的な出会いをします。

それは、「馬術」との出会いでした。

馬術との出会いと成長

竹一は幼少期に乗馬を経験していたことから、1922年、陸軍士官学校予科を卒業する際、「歩騎砲工」の中から「騎兵」という馬に乗って戦う兵科を選びました。
彼は騎兵の訓練を本格的に行うため「馬の神様」とも呼ばれる遊佐幸平から馬術の指導を受け、その腕前をどんどん上達させていきました。

1924年、陸軍士官学校の本科を卒業した竹一は、見習士官として原隊の騎兵第一連隊に配属され、同年10月には、陸軍騎兵少尉として任官されました。これにより、竹一は正式な軍人としての地位を得て、騎兵としての道を歩んでいくこととなりました。

竹一の馬術の腕前がわかる2つのエピソードが残されています
クライスラーを飛び越える竹一と福東

これは、福東という馬を調教し、自身の愛車であるクライスラーの上を飛び越える瞬間を捉えた写真です。
このパフォーマンスは、一歩間違えれば、馬や竹一、車にも大きな危険が及ぶ可能性があります。正確な計算と高い技術が求められるだけなく、彼の勇気と訓練の成果、そして馬との信頼関係を示しています。
※危険ですので絶対に真似しないでください

またこの写真は、竹一が陸軍騎兵学校の学生時代に、アイリッシュ・ボーイという馬に騎乗している様子を捉えたものです。

この写真の特筆すべき点は、竹一が飛び越えている障害は2m10cmという驚異的な高さだということです。

2m10cmという驚異の高さを飛ぶ竹一とアイリッシュ・ボーイ

バロン西とウラヌスの出会い

1928年、第10回ロサンゼルスオリンピックの馬術候補選手に選ばれた竹一は、世界でも通用する優れた馬を探していました。そんな中、イタリアから”クセが強いが非常に優れた馬がいる”という連絡が入りました。後に彼の愛馬となる「ウラヌス」でした。

竹一はその情報に興奮し、すぐに半年間の休暇を取得しイタリアへと旅立ち、ウラヌスに会いに行きました。ウラヌスはフランスで産まれた「アングロノルマン」種のセン馬で、血統は不明でしたが、とても大きく体高は181㎝ありました。ウラヌスは飛び方に癖があり、竹一はその調教に苦労しましたが、やがて二人は息の合ったパートナーになりました。

ウラヌスとの出会いから数日後、彼らはローマで開催された大会に出場し入賞を果たします。日本人の入賞は当時では珍しいことでしたので、すぐに評判になりました。その後も竹一とウラヌスは5ヶ月間にわたり、欧州各国の数ヶ所で国際競技に出場し、入賞を重ねました。この活躍により、「バロン西」という名前はヨーロッパでも有名になっていきました。

ヨーロッパで実力を高めた竹一(以下、バロン西)は、ウラヌスとともに日本へ帰国し、彼とウラヌスはさらに信頼関係を深めていきました。

ウラヌスの特徴
項目内容
生年月日1919年? – 1945年3月28日
産地フランス
性別セン(去勢馬)
毛色栃栗毛
頭の白斑白い星
種類アングロノルマン種
※父母は記録にないため血統は不明
体高181㎝
名前の由来天王星
※額に星印があったことから天王星の名をとったとされる
元の所有者ローマの騎兵中尉
性格気性が荒い
※バロン西以外は誰も乗りこなせなかったといわれています
主な成績1932年第10回ロサンゼルスオリンピック
グランプリ個人大障害飛越競技 優勝

ロサンゼルスオリンピックでの輝かしい勝利

1932年、ついにロサンゼルスオリンピックが開催され、バロン西とウラヌスは、グランプリ個人大障害飛越競技に出場しました。このコースは、全長1050mの中に大小19の障害物、柵や水濠が並べられ、最も高い障害は約1.6m という屈指の難易度のある配置がされていました。完走したのは11人の選手の中でわずか5人だけでした。

障害馬術の中でもとても難しい種目だったにも関わらず、彼らは見事に息を合わせ、素晴らしい飛越を見せ、金メダルを獲得し日本中を沸かせました。この勝利により、竹一は「バロン西」という名前で広く知られるようになりました。

メインスタジアムに詰めかけた10万5000人の観客
バロン西とウラヌスの走行

ベルリンオリンピックの敗退、そして硫黄島の戦いへ

その後のベルリンオリンピックに出場したバロン西とウラヌスは、落馬により期待されていた成績を残すことができず、周囲からの評価が下がっていきました。「日独防共協定の影響でドイツに花を持たせるためにわざと落馬したのではないか?」というデマまで広まり、次第に風当たりが強くなりました。馬術の専門家たちは、ウラヌスが高齢にもかかわらず素晴らしい技術を持ち続けたことや、バロン西がその馬を見事に操ったことを高く評価していましたが・・・

1944年6月、戦況が悪化する中、バロン西が所属する戦車第26連隊には硫黄島への転身命令が下ります。

硫黄島へ向かう前に、バロン西は一度日本に戻り、馬事公苑で余生を過ごしているウラヌスに再会しました。ウラヌスはすでに25歳(人間で言えば70歳を超える高齢)になっていましたが、バロン西のことをしっかりと覚えていて、大喜びで迎えたといいます。

バロン西は別れ際にウラヌスのたてがみを切り取り、それを持って硫黄島へ向かいました。そこで彼は、最後の戦いを繰り広げることになるのです。

硫黄島に戻った西大佐は、使う予定のない拍車やムチを持ち、ポケットにはウラヌスのたてがみを忍ばせ、エルメスの乗馬靴を履いて地形を確認するために歩き回った

と言われています

バロン西の最期

1945年2月19日、アメリカ軍16万人が硫黄島に攻め寄せました。日本軍は約2万人。圧倒的な兵力の差にも関わらず、硫黄島の占領を5日で終わらせると豪語していたアメリカ軍に対して、日本軍は地下坑道を使って堅固な要塞化を図り、アメリカ軍を苦しめました。

しかし、兵力差は埋まらず、日本軍の敗北が濃厚となっていきました。この時、アメリカ軍はバロン西選手が硫黄島にいることを知り、彼に対して降伏を呼びかけました

「オリンピックの英雄バロン西、出てきなさい。あなたは立派な軍人として責任を果たしました。ここであなたを失うのは惜しい。降伏は恥ではありません。我々はあなたを尊敬して迎えます。」

しかし、バロン西は一言も答えることなく、3月17日、硫黄島からの連絡が途絶えました。バロン西の最期はこの日付近であったと言われています。享年42歳であり、若すぎる英雄の死となりました。

残されたエピソードの数々

「最後まで馬を愛することから長靴に拍車をつけて死ぬ」

馬を愛していたことが伝わるエピソードです。

ウラヌスのたてがみを戦争中もいつも肌身離さず持ち歩いていた

バロン西にとって、ウラヌスは特別な存在であったことが伝わります。

バロン西が戦死した7日後、ウラヌスも亡くなりました

ウラヌスは東京世田谷の馬事公苑の厩舎で老衰のため亡くなりました。

バロン西が身につけていたウラヌスのたてがみはアメリカで発見され、北海道の十勝本別町歴史民俗資料館に遺品として収められました。使用していた鞭や写真は、2021年東京オリンピックを前に、アメリカからバロン西のひ孫にあたる家族に返還され、彼の勇敢な戦いぶりは、後世に語り継がれることとなりました。バロン西がウラヌスとともに成し遂げた偉業は、今も日本の馬術史に残る輝かしいものです。

バロン西とウラヌスの物語は、努力と友情、そして不屈の精神の象徴です。彼らがオリンピックで成し遂げた勝利は、今も多くの人々に感動を与え続けています。

【参考文献】
  •   馬術情報誌 No.597 2011年10月「西とウラヌス~西竹一大佐伝~ 第1回」~ 馬術情報誌 No.608 2012年9月「西とウラヌス~西竹一大佐伝~ 第12回」
  •   乗馬ライフ 2008年3月号「日本で唯一のオリンピックで優勝した馬 ウラヌス」
  •   ウィキペディア 西竹一 西竹一 – Wikipedia